仏教者のことば18

  • 仏教者のことば(18)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     鉢盂(はつう)を洗い去れ
     趙州禅師・中国(従容録第三九則)

    平常心これ道

     あるとき一人の僧が趙州(じょうしゅう)禅師の叢林(雲水の修行する所)に入門しました。そして禅師に「わたくしは初めて叢林にまいり、万事不案内ですが、どうしたらよろしいのでしょうか」と指示をお願いしました。禅師は、
     「ご飯は食べたか」
     と尋ねました。僧が「頂きました」と答えると、禅師は一言、
     「鉢盂を洗い去れ」
     と言われました。「ご飯がすんだら、お茶碗をきれいに洗って片づけておきなさい」というのです。
     ごくあたりまえのことを軽く言われたように聞こえますけれども、じつはこれがまことに意味の深い、重々しい一言なのです。つまり、
     「あたりまえのことをあたりまえにするのが、ほんとうの禅であり、仏法であるぞ」というのです。別のことばでいえば「平常心これ道」というわけです。
     禅というのは、何となく浮世ばなれのした高遠な世界に遊ぶもののように誤解されがちですが、ホンモノの禅というのは、たとい悟るのは高遠な世界であっても、それを日常の生活に活用するところにあるのです。禅に限らず、仏法全体がそのとおりで、仏法の道理を自由自在に活用して、人生を誤りのない、しかも充実したものにしてこそ、その価値があるのです。

    人を見て法を説け

     活用といえば、趙州禅師にはもう一つこういう話があります。
     五台山は、中国における仏教の一大霊場ですが、そこへ行く道の傍らに一軒の茶店があり、その店の前で道が三つに分かれていました。五台山へ行くお坊さんが茶店のお婆さんに、「どの道を行ったらいいのですか」と尋ねると、お婆さんはきまって「真っすぐ行きなさい」と答えます。
     お坊さんが来た道から真っすぐの道を行こうとすると、お婆さんは「あんた、お人好しだねえ。いったいどこへ行く気なの」とからかいます。「だって、真っすぐ行けと教えたじゃないですか」と言うと、お婆さんは「真っすぐというのは、正しい道を道草をせずに行きなさい、ということですよ」といってやりこめます。なかなか禅味のあるお婆さんだという評判が立ちました。
     ある僧がその話を趙州禅師にしたところ、それではわしがその婆さんの力量を試してやろうといって、五台山へ出かけました。そして、茶店のお婆さんに「五台山へはどう行ったらいいのですか」と尋ねると、例のとおり、「真っすぐに行きなさい」と答えました。
     趙州禅師は帰ってきて、「あの婆さんは禅機などありはしない。わしが五台山へ行く道を知っている人間だと見抜けず、千遍一律のことをいっている。ただの婆さんさ」と話したというのです。
     「人を見て法を説け」ということばがあります。仏法の道理は一つですけれども、説く相手の機根によって万億の方便を用いるのが、ほんとうの仏教者というものです。
     わたしたちも、いちがいにこの茶店のお婆さんを笑うことはできません。よくよく心すべきことだと思います。さればこそ、この話はやはり『従容録』の第十則に取り上げられているのです。
    題字 田岡正堂