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仏教者のことば17

  • 仏教者のことば(17)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれて仏となる。
     道元禅師・日本(正法眼蔵)

    仏さまへおまかせする

     ほんとうに大安心を得たいと思うならば、小賢(こざか)しい人間の知恵であれこれと工夫したりしないで、自分の身も心も放(はな)ち忘れて、仏の家へ投げ入れてしまうことだ……というのです。仏の家へ投げ入れるというのは、身も心もそっくり仏さまへおまかせするということです。仏さまに生かされている身だから、生かされているままに生きましょう、というのです。
     そういう気持でいますと、「仏のかたよりおこなわれて」すなわち、仏さまのほうからはたらきかけてくださるから、そのはたらきかけに素直に従って行けば、力を入れることもなく、心であれこれと思案することもなく、生死(すべての変化)をはなれて仏となることができる……というわけです。
     仏となる……といえば、お釈迦さまのような完全な人格者になることのように誤解する人があるかもしれませんが、この場合はそういう意味ではなく、生死を超越した、自由自在な心境になることをいうのです。つまり、宇宙の大生命である仏さまと一体になった、大安心の境地をいうのです。
     法華経の信解品第四にある「長者窮子の譬え」のように、窮子(衆生)は、大長者(仏)の跡取りなどとはつゆ思っていませんので、大長者のはたらきかけに驚いて逃げて行きましたが、それでも大長者はあきらめず、使いの者をやって、雇ってやろうと誘わせました。これが「仏のかたよりおこなわれて」です。
     窮子は初めはなかなか心を開きませんでしたが、だんだん素直になって、長者に引き立てられるままに従順に働きました。これが「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて」にほかなりません。そして、ついに長者の跡取り(仏の分身)だったことを知り、大歓喜するわけです。
     とにかく、「宇宙の大生命に生かされているのだから、生かされているままに生きよう」という素直な気持、これが人生にとって何より大切なのです。

    「呻ってもいいんですよ」

     朝日新聞の論説委員をしておられた森恭三さんが、こんな話を何かに書いておられました。
     森さんが一時間もかかる大手術を受けることになり、それも局部麻酔だと聞かされ、その間じゅう何を考えていようかと思い悩みました。手術台に横になっても、その思い悩みは消えず、身体も緊張で硬くなっていました。
     すると、執刀の医師が、
     「呻(うな)っていいんですよ。そのほうが、わたしも手術しやすいんだから」
     と言ったのだそうです。この一言が、森さんには大きな救いでした。サムライは痛くても呻ってはならないという虚栄心にとらわれていたのが、スーッと楽になりました。安心とともに眠くなり、呻りながら眠ってしまった……というのです。
     森さんは、その医師こそ名医であると結んでおられましたが、たしかにそのとおりです。と同時に、その名医の一言にスーッと心を開いた森さんの素直さにも感心しました。まことに「身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて」の境地だったのです。
    題字 田岡正堂