仏教者のことば7

  • 仏教者のことば(7)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     和を以て貴しと為す。忤(さから)うこと無きを宗と為せ。
     聖徳太子・日本(十七条憲法 第一条)

    単なる反対は世を乱す

     「和を以て貴しと為す」というのは、だれ知らぬ人もいない名言です。日本という国のゆくてを照らす不滅の指針であるばかりでなく、全人類のめざすべき究極の理想を一言に尽くした、永遠の命をもつ言葉です。
     ところが、この第一句のあまりの大きさと重みに圧(お)されて、その布演および解説ともいうべき、第二句以下の文章が忘れられているように思われますので、ここでそれを、学んでゆきたいと思います。
     第二句の「忤うこと無きを宗と為せ」というのは、聖徳太子から千四百年たった現在にこそピッタリの箴言(しんげん)ではないでしょうか。小は家庭や学校から、大は政界や国際関係に至るまで、「反対することはいいことだ」「逆らうことが権利の主張だ」といった風潮がはびこっています。逆らえば、相手もそれに対抗します。そこに必ず闘争が生じ、火花が散ります。これでは人間は未来永劫、ついに幸せにはなり得ません。
     もちろん、反対すべきこと、逆らうべきことにまで泣き寝入りする必要はありませんが、「何でも反対」のムードがよくないのです。そうではなく、「仲よくしよう」という意識を先に立て、それを前提として事に当たりなさい、というのが「忤うこと無きを宗と為せ」の真意だと思います。
     次に「人にはみな党(ともがら)有り、亦達(さと)れる者少し」とあります。人間には大小にかかわらず党(仲間)というものがありますが、正直なところ、天地の道理を悟った人が少ないために、それらの党もたいていは道理に合致した結びつきではなく、自己中心の結びつきです。それゆえ、反対のための反対、自分たちの利益のための抗争に終始し、それが世の乱れを誘うのだ……というのです。
     これもまた、今の世にそのまま通用する明察というべきでしょう。

    和にも深浅の段階あり

     そこで、この第一条の結論として、「上和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(ととの)いぬるときは、すなわち事の理(ことわり)自(おの)ずからに通(かよ)う。いかなる事が成らざらん」とあります。
     上というのは、家庭でいえば、父母、学校でいえば教師、国家でいえば為政者に当たりましょう。いろいろな立場の人が「和」の気持をもち、一方、子供・生徒・国民大衆のほうでも前記の人々に対する「睦び」の気持をもち、お互いに物事を相談し合うことである。そうしてその相談が煮詰まって諧和の状態に達すれば、そこに自然と天地の道に通うものが生じてくる、そうなれば何事でも成就しないものがあろうか……というわけです。
     わたしは、十七条憲法第一条の真価はこの結論の段にこそあると信じます。ただ何でもいいから和せよ和せよとおっしゃっているのではありません。「和ということを前提として、ジックリ話し合いなさい」と教えられているのです。「民主主義には時間がかかる」という言葉がありますが、まさしくその通りです。太子は民主主義の真髄をも洞察しておられたのでしょう。誠に頭が下がります。
     とにかく、ほんとうの「和」を軽々しく考えてはなりません。孔子も「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言っておられます。君子は私利私欲がないから道理に従って和するのであって、利己的な党(ともがら)に付和雷同することはない。小人は私心をもって同じような仲間に入るのだから、それはほんとうに和しているのではないのだ……というのです。和にも深浅さまざまの段階があると知るべきでしょう。
    題字 田岡正堂