心が変われば世界が変わる24
心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(24)
立正佼成会会長 庭野日敬仏とはどのような存在か
人間としての仏陀は一人
(仏(ぶつ))というのは、梵語のブッダの音写である仏陀の略で、元の意味は(悟った人)ということです。宇宙のギリギリの実相を見極め、天地の法則を悟り、その真理に即して「人間はどう生きねばならないか」という大道を発見した方をいうのです。
こういう意味の仏陀は、過去世にもたくさんおられたのだ、と釈尊はお説きになっておられます。ご自身も前世において多くの仏に仕えて法を聞いたとおおせられ、例えば法華経の常不軽菩薩品にご自身のことを「諸の善根を種え、後に復千万億の仏に値いたてまつり、亦諸仏の法の中に於いて是の経典を説いて、功徳成就して当に作仏することを得たり」とあります。しかし、われわれ現世の人間から見れば、歴史上実在の人物としての仏陀は、釈尊がただおひとりです。そして、その教えだけが今も残っているのです。ですから、人間として仏となられた方(応身の仏)といえば、お釈迦さまのことだと考えてさしつかえないわけです。釈迦牟尼如来は今もいます
そのお釈迦さまは、二千五百年も前に入滅なさいました。一部の仏教学者は、「人間は死んだらまったく空に帰し、何物も残らない。霊魂も残らない」と説きます。しかし、われわれ法華経の信奉者は、如来寿量品で「而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」とおおせられていることを信じます。釈迦牟尼の身も魂もまったくは消滅して空に帰し、如来残っているのは、その完全な人格への追慕と尊い教えへの帰依だけであるとはどうしても考えられません。
それでは、今はどのような身になっておられるのでしょうか。それを考えて考えて考え詰めていきますと、どうしても「尊い霊的存在としてこの三界に遍満しておられるのだ」という結論に達せざるをえません。霊的存在として常住しておられればこそ、「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」ることもあれば、「諸のあらゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 即ち皆我が身 此にあって法を説くと見る」こともあるのです。
われわれは学者ではありません。信仰者です。人間の形として想像できる霊的存在のお釈迦さまが、今も確かにいらっしゃり、いつでもわれわれを見守っていてくださることを信じます。そう信じればこそ、「悪いことはできない」と身を慎しんだり、事あるごとに「どうすれば仏さまのみ心にかなうだろうか」と真剣に考えたり、切羽詰まったときは「み心のままになさってください。お任せいたします」と我を投げ出すことによって、救いを覚えたりするのです。われわれの心と声が必ず仏さまに届くと信じればこそ、「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」とお唱えするのです。
これは、阿弥陀如来を信ずる人も、観世音菩薩を信ずる人も、イエス・キリストを信ずる人も、聖母マリアを信ずる人も、みんな同様です。信仰は理くつではありません。霊的存在としてそのような方が必ずわれわれの周囲に実在されると信じればこそ、信仰は成り立ち、そして救われるのです。
なお、仏教では、そのような尊い霊的存在は、法華経如来寿量品に「慧光照すこと無量に 寿命無数却 久しく業を修して得る所なり」とあるように、長い長いあいだ修行を積まれ、無数の人びとを救われた功徳の報いとしてそのような身となられたのですから、これを(報身の仏)と申し上げます。根源の仏は宇宙の大生命
仏さまの身には、これまでに述べてきた(応身の仏)と、(報身の仏)と、もう一つ(法身の仏)という考え方があります。これは人間としてお生まれになった身でもなく、人間の形として思い浮かべることのできる霊的存在でもなく、その根源である宇宙の大生命をいうのです。万物・万象を造り、生かし、働かせている大いなるいのちです。もちろん目には見えません。形もありません。始めもなく、終わりもなく、大いなる光明体・生命体として万物を存在させておられるので、仏教では(久遠実成の本仏)とも申します。
これが万物・万象の根源であるからには、人間の根源も(久遠実成の本仏)です。人間は間違いなく本仏の分身なのです。ですから、われわれも本来は純粋で、清浄で、光り輝くようないのちそのものなのです。ところが、それが具象化して形体をもつ生命体となってから(とくに人間に進化してから)自ら生み出したさまざまな煩悩によって、その本来の姿(これを仏性という)を覆いかくし、そのために苦しんだり悩んだりしているわけです。
お釈迦さまは、人間として生まれながら、こうしたもろもろの煩悩を断ち切り、仏性を完全に顕現された方です。そして、無数の人をお救いになり、尊い数えを万世にお残しになりました。したがって、入滅されて霊界に入られるや、根源の大生命と合致する一大心霊となられたはずですが、しかし、衆生済度の本願のために、今でも報身仏として娑婆世界のわれわれのまわりにいてくださっているのです。ありがたいことです。
こういうわけで、仏さまの身を応身仏・報身仏・法身仏と三つに分けて説明してきましたが、元をただせば一体であることは言うまでもありません。このことを(三身一体)というのです。(つづく)
伎芸天立像頭部(秋篠寺)
絵 増谷直樹