心が変われば世界が変わる23
心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(23)
立正佼成会会長 庭野日敬四聖も別世界ではない
われわれも声聞・縁覚
今度はいよいよ(四聖)の世界に入りましょう。(聖)といえば、何かわれわれ凡夫とはかけ離れた存在のように感じられますが、そうではなく、たとえ凡夫の身でも、信仰心を起こして仏の教えを求めるようになれば、もう(聖)の仲間入りをしたことになるのです。この記事を熱心に読んでおられるあなたは、少なくとも今の瞬間においては立派な(声聞・しょうもん)なのであります。
(声聞)というのは、梵語シュラヴァカの訳で、文字通り((仏の)声を聞く人)という意味です。もともとは、釈尊のお弟子として直接その教えを聞いた人々を指したのですが、後世になってからは、仏の教えを学ぶことによって煩悩から解脱しようと努力する修行者を指すようになりました。現在では、書籍などによって仏の教えを学ぼうとしている人も、やはり声聞といっていいのです。いわば(学習主義の仏教者)が声聞なのです。
(縁覚・えんがく)は、梵語のプラティエーカーブッダ(音写して辟支仏・びゃくしぶつともいう)を訳したものですが、(独覚)と訳した方が正しいという説が有力です。つまり、自らの精神生活の体験によって悟りを開こうとする修行者で、昔のインドには独り林間に籠って苦行したり、瞑想したりする人がたくさんありました。(縁覚)という言葉は、そのような修行者は、身辺のさまざまな変化(例えば、木の葉が秋風に散ったというような)を縁として覚る……というところからつけられたといわれています。いずれにしても、縁覚とは(体験主義の修行者)と言っていいでしょう。われわれが静かに座って瞑想したり、一心に読経したりして、我のない澄み切った心境になった時、少なくともそのひと時においては、われわれもまさしく縁覚なのであります。菩薩は行動と奉仕の仏教者
(菩薩)というのは、梵語のボディサットヴァの略で、(悟りを求める人)という意味です。といえば、声聞も縁覚も悟りを求める人なのに……という疑問もわきましょうが、もともと菩薩というのは、釈尊の前世の身の呼称として用いられ、またその連続として、悉達多(シッダールタ)太子が出家されてから仏の悟りを得られるまでの修行中の身をこうお呼びしたのです。ところが、いわゆる大乗仏教が興起してから、その派の人たちが「われわれも仏と成りうる身だ」という信念から、自分たちの通称として用い始めたのが(菩薩)という言葉だったわけです。
同じく悟りを求めるにしても、声聞や縁覚は自分自身の解脱が目標です。ところが菩薩にとっては「仏となって一切衆生を救おう」というのが目標です。こういう心を菩提心というのですが、声聞や縁覚とはここが違うのです。従って、この修行方法も、声聞が主として聞法・学習であり、縁覚が主として瞑想・座禅であるのに対して、菩薩は、そのような修行に加えて、世間の人々の救済と教化に挺身するのです。実際に人々を教化しつつ、救済しつつ、そうした行動を通じて自らの悟りをも深めていくわけです。いわば(行動主義の修行者)であります。(奉仕主義の仏教者)といってもいいでしょう。
ですから、もしわれわれが悩み苦しんでいる人に「仏さまの教えに入ってごらんなさい」と手引をしたり、自分が理解している限りにおいて仏の教えを説いてあげたり、あるいは自らの財物や時間や労力を割いて、その場その場の苦しみを救ってあげたり、または多くの人々の福祉や社会の向上のために奉仕したりする時、われわれは間違いなく菩薩なのです。ですから、菩薩といっても、決して凡夫とかけ離れた存在ではありません。ただ違うのは、「仏となって一切衆生を救おう」という菩提心が確立しているか否か、そして、人々への教化・救済の行動が徹底・一貫しているか否か、そこのところだけなのです。法身の菩薩とはどんな方か
なお、観世音菩薩・普賢菩薩、虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などのように、ほとんど仏と同様に帰依・尊崇されている菩薩方がおられます。これら諸菩薩は、すでに仏の悟りを得、仏の資格を具えておられるのに、自ら仏と成ることを拒否して菩薩の地位に留まり、自由自在に娑婆世界に現れて衆生済度に活動される、いわば奉仕主義の権化であると申し上げてもいいでしょう。実際にこの世に出られた方を、行基菩薩とか日蓮大菩薩などと尊称するのも、同じような意味からであると考えていいでしょう。 (つづく)
仏の頭部(ハッタ出土)
絵 増谷直樹