心が変われば世界が変わる12
心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(12)
立正佼成会会長 庭野日敬心が変わればからだも変わる
信仰で病気が治る六つの因
立正佼成会に入会して信仰するようになってから、医者も見放したような難病が治ったという例は、数え切れないほどあります。副会長だった長沼妙佼先生なども、その好例と言えましょう。ましてや、それほど重病でもない慢性病が治ったとか、病弱だったからだが見違えるように元気になったというケースは、おそらく数万、数十万例に達するだろうと思われます。
なぜ治ったか、なぜ健康になったか、という原因は、いろいろな要素がからまっていると思われますので、にわかに断定はできません。いろいろな要素というのは、第一に、先祖の供養を朝晩真剣に執り行うことによって、その諸精霊が安らぎを得る、その結果が供養する人にはねかえってくるということがまず考えられる、ということ。第二に、諸仏・諸善薩、諸天善神のご加護を受けるようになった、ということ。また本会では、病気の方に対しては、班・組・支部などで祈願供養を行いますが、そのような(集合した愛の念波)は非常に強力な力をもっていますので、その祈願が通じた、ということ。さらには、信仰によって本人の心が変わったために、(心身一如)の理によってからだも変わったということ。そして、信仰活動によってからだも積極的に動かすようになり、それが好影響を与えた、ということ。あるいはまた、姿勢を正してご供養することによって、それが腹式呼吸、数息観に自ら適っていること。奇跡のようでも奇跡でない
これらの原因のうち、前の三つには神秘的な要素がたぶんにあります。これについては、あとでゆっくりと考究することにしましょう。あとの三つの原因はだれしもすぐ納得のいくものですが、それにしても、信仰者の場合は、それが突然に出現することが多いために、(奇跡)と受け取られる場合がよくあります。
例えば、こういう実例があります。前の世田谷教会長の豊田恵三郎さんが、直接、私に話されたことですが、一昨年(五十二年)のお会式で私が説法させて頂いた時のことです。豊田さんは、何かお悟りを頂戴してずっと足を痛めて、歩くのも苦しかったのだそうです。ところが、私の説法を聞いていた一人のお年寄りが、大聖堂のホールのいちばん前の床にタオルか何か一枚敷いて座り、懸命に合掌しておられる姿を見て、豊田さんは「ありがたい。これが佼成会の信者さんなんだ」と感激されたのだそうです。すると、そのとたんに足が治ってしまい、連れてきた子供さんを何気なく抱き上げたら、少しも痛くないのに気がついた、というのです。そして、楽々と歩いて帰られたのです。
この実例など、奇跡と言えるかもしれませんが、私はやはり(心が変わればからだも変わる)の理に基づくものだと信じます。豊田さんは「何かお悟りを頂戴して……」と語っておられましたが、それはつまり、何か心の中に引っ掛かりというか、しこりというか、執着というか、そうした異常があり、それが足の痛みを起こしていたものと推定されます。
心の異常は筋肉や神経にも微妙な影響を及ぼすもので、前に紹介した池見博士の著『心療内科』にもそうした症例がたくさん語られています。例えば、斜頸と言って首が一方に曲がっている異常がありますが、先天的なものは別として、博士が精神療法で治されたものは、恋愛の破綻、職場での対人関係のもつれ、強制された転任、同僚が先に昇進したことへの不満などによって誘発された肩、頸の凝りに端を発し、それが続くうちに頸が動かしにくくなってしまったもの……と記されています。
また、中学時代は首席だった女の子が町でいちばんの進学校である高校に入り、急に負担が重くなって、心身を緩める暇がなくなったら、中学時代からあったジンマシンと膝の関節の痛みが連日起こり、とうとう休学してしまったという症例もあります。ジンマシンは暗示療法で治ったのですが、それだけでは本当の解決にはならないので、両親とも相談の上、進学コースでない楽なコースに変えさせたら、膝関節の痛みも起こらず、再び元気に通学するようになった……とのことです。心の全体を正常化すれば…
豊田さんの足の痛みの原因は知る由もありませんが、やはり根源的には心にあったものと思われます。ところが、さすがに修行を積んだ方だけあって、一人のお年寄りの信仰の姿を見て、「ああ、ありがたい」という一念を起こされた瞬間に全く無私の、純粋の、仏さまのみ心にそのまま通ずる正常の心になってしまわれた。もちろん足の痛みの原因となっていた心のしこりなども、瞬間に雲散霧消してしまった……こう考えるよりほかはありません。信仰によって病気が治ったという実例には、このように、心の全体が純化され、正常化されたために、個々の原因と結集の結びつきがハッキリつかめないままに治る場合が多く、本当は判然とした因果関係があるのですが、それが私たちの目には見えないために、そこで(奇跡)と言われるケースも多々あると思います。(つづく)
婦女形 法隆寺五重塔塑像
絵 増谷直樹