心が変われば世界が変わる7
心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(7)
立正佼成会会長 庭野日敬下がるのはなぜ善なのか
譲る心で家庭や社会も平和
ときには譲ること。
世の中には「絶対に譲れない」というものごとは案外少ないものです。自分一人の立場から見れば金輪際(こんりんざい)譲れないと思っても、ちょっと心に余裕をもたせて、大勢の人間の立場に立って考え直してみると、「少しわがままかな」という反省が生じてくることがよくあります。また、その時その場では絶対に譲れないと思っても、一日なり二日なりたってみると、「そう強情を張るほどのことでもないじゃないか」と、考えが柔らぐこともよくあるものです。
利害のからまる諸問題でも、「大所高所から見れば、一歩も引けない」というケースはあまりないものです。「負けるが勝ち」で、一歩引いたほうがかえって結果がいい場合もよくあります。商人はそれをよく承知していますから、取引の条件を決める場合など、「仕方がない。今度はわたしが泣きましょう」と、ある所で妥協します。そして、泣くことによって、いつまでも笑ってつきあえるのです。長く取引を続けることができるわけです。
ましてや、親子、夫婦、親戚、友人といった、利害関係よりも親和関係のほうが強い間柄においては、お互いに譲り合うことが絶対に必要です。佼成会では、これを(下がる心)と表現して、教えの大切な根幹としています。なぜ大切かと言いますと、それには個人的と社会的と双方の利益(りやく)があるからです。個人的な利益とは、「我を張って心にストレスを起こすよりも、ちょっと譲れば気が楽になり、体のためにもよい。またそうすることによって人格が高まる」ということです。社会的な利益とは、「譲ることによって家庭(これも小社会)の波風も収まり、そういう気風がだんだん世の中に広がっていけば、社会全体が次第に平和になっていく」ということです。下がれば心が和やかになる
釈尊は、この(下がる心)の利益をもっと深く掘り下げて説いてくださっています。すなわち、『大宝積経巻五九』に次のようにあります。
「謙下(けんげ=下がる心)に四種の利益あり。何等を四と為す。一には、悪趣畜生等の身を遠離(おんり)するなり。二には、妙なる快楽(けらく)を受くるなり。三には、潜謀(せんむ)も暴賊も倶に害する能わざるなり。四には、人天の恭敬礼拝を受くるに堪うるなり」
「悪趣畜生等の身を遠離する」というのは、下がる心をもっておれば、貪欲(餓鬼)、闘争(修羅)、憤怒(地獄)、愚痴(畜生)、といった悪道から自然と遠ざかり、人間らしい人間になれる……ということです。
「妙なる快楽を受くるなり」というのは、下がれば必ず心が和やかになり、人を柔らかく抱き取るような気持になり、したがって周囲の人々とも和楽できますから、何ともいえない幸せな気持になれる……ということです。
「潜謀も暴賊も倶に害する能わざるなり」というのは、我を張って一歩も譲らないような人に対しては、ひそかに策謀をめぐらしておとしいれたり、暴力で立ち向かったりする相手が現れるものですが、下がる心をもった謙虚の人に対しては、そんな対抗意識を起こし難いものだ……ということです。よしんば起こしても、いわゆる「柳に雪折れなし」で、そんな人にはなかなか通じないものです。
「人天の恭敬礼拝を受くるに堪うるなり」というのは、そのような謙下の人は、つねに「自分はまだ至らぬ人間だ」というつつましい自覚をもち、したがって、つねに上へ上へと向かう求道の志を胸奥にもっている人であるから、人間はもとより、神々からまで敬われる資格があるのだ……ということです。必ず真理によって執われる
ここで思い出すのは、新約聖書の中にある「さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」という言葉です。「心の貧しき者」というのは、自分の心に欠乏を覚え、それが満たされんことを祈る人のことです。自分はまだ至らぬ人間だという自覚をもつ人、つまり下がる心の持ち主です。「天国はそのような人のものだ」とキリストはおっしゃっているのです。釈尊のおっしゃった「人天の恭敬礼拝を受くるに堪うるなり」と、何という尊い一致でありましょう。
なぜ下がる心の持ち主がそんなに尊く、下がることがそんなに立派な行為なのか。これは「この世は持ちつ持たれつの大調和によって成立している」という諸法無我の真理によって証明できます。
現実の世の中を眺めてみますと、たいていの人がオレがオレがと我を張っています。自分の権利ばかりを主張しています。その状態を放っておきますと、我と我、権利主張と権利主張は必ず衝突し、争いが起こります。摩擦を生じます。そして、ギスギスした住みにくい世の中になっています。ですから、そこにいくらかの下がる心の持ち主、すなわち、外部から突っかかってくる力を柔らかに受けとめる、クッションのような、空気バネのような人間が絶対に必要なのです。そんな人がいてこそ、世の中のバランスが取れ、調和が生まれるのです。
ところが、我を張り、権利を主張することに比べて、下がるとか譲るとかいうのは、割に合わぬことのように思われます。表面上はたしかに割に合いません。しかし、その割に合わぬ役目をあえて自分が引き受けるという尊い犠牲的精神がどこかで報われぬということはけっしてないのです。善因善果の理で必ず報われます。
自分が犠牲になって大なり小なりの調和をつくり上げる。それは「宇宙は持ちつ持たれつの大調和の世界」という真理に合致した道でありますから、表面上は犠牲になっているようでも、実際は必ず真理によって報われるのです。身心共にいい報いを受けるのです。釈尊のお説きになった四つの利益がそれにほかなりません。
(つづく)
わかい女の頭部
絵 増谷直樹