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心が変われば世界が変わる6

  • 心が変われば世界観が変わる
     ―一念三千の現代的展開―(6)
     立正佼成会会長 庭野日敬

    怒りへの対策と三味方

    数を数え怒りの心を静める

     怒りは仕事で消すこと
     怒りには、大きく分けて、公憤と私憤がありますが、この場合、公憤は別問題とします。なぜならば、純粋の公憤は多くの人々の幸せのためを思って怒るのであって、根底に慈悲の心が横たわっているからです。もし仮に、公憤のあまりに病を発するようなことがあっても、その人は、私利私欲のみを追及しながら、ピンピンしている人よりはるかに価値ある、崇高な人物であります。ですから、この場合は、いわゆる私憤のみを問題とします。
     さて、昔から「腹が立ったら十数えよ」という言葉があります。十数えるうちに、少しばかり心が冷静になってきて、頭から湯気を出して怒り狂おうとする自分のバカらしさ、大人気なさに気づくからです。つまり、自分の心を、現在いちずに立ち向かっている対象から、ぜんぜん別の対象すなわち「数を数える」という単純な仕事に移し変えることによって、カッカと燃え上がろうとする怒りの火を消してしまう、少なくともブスブスくすぶる程度に収めてしまうわけです。
     この「数を数える」という仕事は、心を静めるために案外大きな働きをするものであって、禅宗では基本的な修行として数息観(すうそくかん)ということをやらせます。これは、自分の呼吸する息を心の中で「ひとーつ」「ふたーつ」と数え、百まで数えたら、また一にもどって数えるのです。こうする間に、もし(数を数える)以外の思いがチラッとでも混じったら、それは雑念ですから、また一から数え直すわけです。
     簡単なようで、なかなかむずかしいことであって、もしぜんぜん雑念を起こさずに数だけ数えておられるようになったら、数息三昧という立派な禅定の境地に入ったと言えるのです。よく無念・無想と言いますが、目の覚めている時の人間にとって、何も思わないということは、不可能であって、三昧の境地とは、邪念・妄想の混じらぬ、ある尊い一念を持続して、揺るがない状態を言うわけです。

    熱中することが人生に大切

     さて、(怒りは仕事で消せ)というのも、「怒っている対象から、ぜんぜん違った対象へと心を移し変えなさい」というわけで、まことに理にかなったやり方です。
     仕事といっても、職業上の仕事でもいい、あるいは趣味上の仕事でもいい、とにかく自分が熱中できるものにシャニムニ取り組んでいくのです。そうすれば、初めはブスブスくすぶる程度の怒りが残っていても、いつしかそれも消え去ってしまうこと必至です。
     熱中すれば、没我の状態になります。妄想・雑念が消え、その一事だけに専念して、われを忘れてしまうわけです。その状態が、つまり三昧であって、人生にとって(正しい三昧に入る)ことほど大事なことはありません。正しい三昧といっても、なにもむずかしく考える必要はなく、普通の生活者としては、仕事をする時は仕事三昧、勉強をする時は勉強三昧、スポーツをする時はスポーツ三昧、とにかくその一事に熱中し、没頭することです。
     そうすれば、それぞれの分野で、高い境地に達することができるばかりでなく、そうした心の集中力、つまり三昧力は、いろいろな場合に思いがけない大きな働きをするものであります。ここにあるような(怒りを仕事で消す)場合もそうです。
     もし仕事に集中する三昧力が不十分で、仕事をしながらも腹の立つそのものごとが忘れられないようでは、十分な効果をあげられないでしょう。ですから、なにごとをなすにも、それに(三昧する)クセをつけておくことが、よき人生を送る大きな要因となるわけです。
     さて、(怒りを仕事で消す)よりは、自分の理性のはたらきで、それを消したいと望む理想派の人もおられるでしょう。そんな人のためには、聖徳太子の十七条憲法の第十を紹介しておくことにしましょう。すなわち……
     「十に曰く、心の怒りを絶ち、おもての怒りを棄て、人のたがうを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執ることあり。かれ是(よみ)すれば、すなわちわれ非なり。われ是すれば、すなわちかれ非なり。われかならずしも聖に非ず。かれかならずしも愚に非ず。共にこれただひとのみ。是非の理(ことわり)、いずれか定むべき。相ともに賢愚なり。鐶(みみがね)の端(はし)なきが如し。これをもって、かの人はおもて怒るといえども、かえってわがあやまちを恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従って同じくおこなえ」

    独善を慎み仲間と努力を

     人が自分と違うからといって、怒ってはいけない。人間にはそれぞれ執着している見解があるものだ。自分がよいと思うことを、人はよくないと思うことがある。人がよくないと思うことを、自分はよいと思うこともある。自分はかならずしも聖者ではなく、相手はかならずしも愚者ではない。どちらも凡夫なのだ。凡夫である限り、こちらが是で向こうが非だとハッキリ決められるものではない。本当の是非は、絶対の真理のみが知っているのだ。凡夫である限り、ある時はこちらが賢く、ある時は向こうが賢く、転転として定まりのないことは、円い鐶に端のないのと同様である。だから、一方的に怒ってはならない。また、相手が怒ったら、すぐそれに怒りをもって対抗することなく、怒った原因がどこにあるかを静かに考え、それを参考にして自分があやまちを犯すことのないように、恐れ慎むことが大切である。
     また、自分だけが正しい道を悟り得ているように思われることがあっても、決して独善的になることなく、世の多くの人たちを、共に迷い苦しみながら道を求める同行の仲間と観、自分もその人たちと一体の凡夫であると悟り、多くの人たちと同列になって、悩み苦しみつつ努力することである……このような教えです。
     これは、怒りを和らげ消滅する教えとして尊いばかりでなく、真の民主主義(仏教的民主主義)の道を指し示す素晴しい教えだと信じます。
    (つづく)
     阿修羅像頭部(興福寺)
     絵 増谷直樹