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心が変われば世界が変わる5

  • 心が変われば世界が変わる
     ―一念三千の現代的展開―(5)
     立正佼成会会長 庭野日敬

    心の掃除と休息を

    心の平和を得る秘訣

     さてそれでは、スチブンスン博士の説く「ストレスを緩和し、心の平和を得る秘訣」を、仏法に照らし合わせながら考えていくことにしましょう。
     率直に打ち明けること。
     気になることや心配事を、ただクヨクヨと胸の中でくすぶらせているばかりでは、いつまでも解決はしません。
     理性がどこかへ追いやられ、感情ばかりが無秩序に空回りしているために、問題をどう解決していいかという方途など思いつく余裕がないからです。
     そこで、そうした余裕を見つけ出すか、積極的につくり出すかして、心に理性を取り戻す工夫が肝心となってくるわけです。その一方法として、心配事を筋道を立てて紙に書いてみることを勧める人もあります。たしかにそれは名案です。頭の中だけであれこれと考えている時は、ものごとが過大に感じられたり、ゆがんで見えたり、錯綜(そう)していてどうにもならないように思われるものです。
     ところが、それを文書にしたり、数表にしたり、図式にしたりして書きあらわしてみますと、かなり実相が見えてきます。全体がおよそつかめます。ものごとを組み立てている諸要素の相互関係がハッキリしてきます。そこから、解決の糸口を発見することがよくあるものです。

    心の悩みは信頼できる人に

     ところが、事業の上などの心配事ならそれも良策ですけれども、純然たる心の悩みとなると、その方法も手に負えません。たとえば、自分の欠点が気になって仕方がないとか、仲よくしていた人が急によそよそしく感じられるようになったとか、上司や同僚が信用できなくなったとか、自分が無能・無力であるような劣等感にさいなまれる……といったような悩みになりますと、自分の力ではなかなか解決できません。
     そんな場合は、信頼できる人――友人でもいい、父母でもいい、先生でもいい、とにかく親身になって聞いてくれる人――に胸の中を洗いざらいぶちまけて相談するのが最上の方策です。そうすれば、話をしただけで、その瞬間から胸がスーッとしてきます。心にいっぱい溜まっていたゴミを、とにもかくにも掃き出してしまったわけですから、そこにスガスガしい空間ができるわけです。すると、その空間(これを(余裕)という)に、これまでどこかへ追いやられていた理性が戻ってきて、ものごとを客観的に眺める冷静さも生じるのです。ですから、人に打ち明けたとたんに、「オヤ、大したことはなかったのに……」と気づくことも往々にしてあるのです。
     ましてや、打ち明けた相手から適切な助言を与えられると、それを糸口として問題を解決することもできます。少なくとも、「解決しよう」という意欲がわいてくるものです。「暁の来ない夜はない」という言葉のとおり、解決できない人生問題はないのですから、意欲をもって立ち向かえば、必ず道は開けるのです。
     ところで、立正佼成会の法座は、万人のための「率直に打ち明ける場」であります。打ち明ける相手のない人は、どうぞ遠慮なくおいでになって頂きたいものです。また、会員のみなさんも、自分たちのこのような尊い立場と役割を、常に深く自覚していて欲しいものです。

    利害や欲望を離れた世界へ

     しばらく避難すること。

     逃避すると言えば、何か卑怯なことのように考えられるかもしれませんが、身辺に殺到するストレスから一時的に逃れるのは、心の調和をはかる自然の智慧であって、けっして恥ずべきことではありません。
     第二次世界大戦当時、アメリカの大統領だったハリー・トルーマンは、次々に押し寄せる難問題と激務の中で、素晴しく冷静で、しかもつねに健康を保っていました。ある人がその秘訣を尋ねたところ、「わたしは心の中にフォックス・ホールをもっていて、時々その中に入るからです」と答えたそうです。フォックス・ホール(狐穴)というのは、日本軍隊ではタコツボと呼んでいましたが、兵士が一人入れるくらいの簡単な塹壕で、激しい砲火を浴びせられた時、そこに身を潜め、危険を避けると同時に、ひとときの休息を取るためのものです。トルーマン大統領は、自分の心の中にこのフォックス・ホールをもっていて、ときどきその中に入って気にかかることをきれいサッパリ忘れることにしているのだ……というわけでした。
     ストレスからの一時的逃避には、いろいろな方法があります。音楽を聞く、スポーツをやる、散歩をする、それぞれいいことです。静かに座って瞑想する……となりますと、たんなる逃避以上のはたらきをもつ尊いことです。トルーマン大統領のフォックス・ホールは、おそらくこの瞑想だったのではないかと思われます。
     信仰はもちろん、ほんとうの意味はもっと奥深いものではありますが、心を静め、神経の緊迫を柔らげる効果も非常に大きなものがあります。
     朝夕ご宝前に正座して礼拝し、読経し、題目を唱える。道場に来て、法の話を聞き、同信の仲間と研さんし合う。すべて、利害と欲望の渦巻く俗世界から離れて静かな魂の憩いの世界に入ることであり、精神衛生上こんないいことはないのです。
     よく世間には「宗教は生活からの逃避である。弱い者のやることである」と勇ましい論を吐く人もありますが、そんな人でも、思索に行きづまったらタバコを吸いましょうし、夜は一杯飲みにも出かけるでしょう。それが逃避でなくて何でありましょうか。
     もし実生活から絶対に逃避しない人があったとしたら、必ず気狂いになるか、病気を起こして早死にするでしょう。百歩を譲って、かりに宗教が逃避だったとしても、酒や、女や、ギャンブルなどに逃避するよりは、はるかにすぐれた、有意義な逃避ではないでしょぅか。
     ハーバード大学哲学教授だったウイリアム・ジェームスはこう言っています。
     「言うまでもなく、煩悶(はんもん)に対する第一の治療は宗教的信仰である」と。
    (つづく)
     供養の子供(アフガニスタン)
     絵 増谷直樹