開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
法話コード=開祖-1979-04-11-A
先生名=庭野日敬開祖
行事名=1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会
日 時=1979(昭和54)年4月11日
録音分=19分
場 所=ロンドン、ギルド・ホール
出席者=掲 載=『』
見出等○庭野開祖会長 (一同 拍手)(咳払い)ご来賓の皆さま、議長、(咳払い)そして紳士淑女の皆さま、このたびわたくしは、(咳払い)はからずも、素晴らしい、テンプルトウしんを、(咳払い)テンプルトン賞をちょうだい致しましたが、世界には、わたくしよりはるかにすぐれた宗教上の、業績をあげられた方々がたくさんおられますにもかかわらず、わたくしに受賞の光栄を賜りましたことを、心から感謝を申し上げる次第でございます。と同時に、わたくしとともに世界宗教者平和会議のために、過去10年間にわたって協力してくださった同志の方々の賜物であることを、特に申し添えておきたいと存じます。
講演に当たって、まず申し上げておきたいことは、わたくしは学者ではございません、え、ただ仏陀(ぶつだ)の教えのままに実践している一(いつ)仏教徒にすぎないということであります。そのわたくしが、いま、足りないながらも、人びとの幸福と世界の平和のために、努力のできえました、ことは、少年時代に受けた祖父からの影響であるということであります。
わたくしは、日本(にほん)の北部にある新潟県の山の中の寒村に育った者でありますが、わたくしをかわいがってくれました祖父が、どんな小さな虫でも、自分で食べるぐらいのことはしているではないか、まして、人間として、生まれたからには、世のため人のために役立つ人間にならなければいけない、ということを常々わたくしにいい聞かせるとともに、自らも村びとの苦しみ、悩みのために献身しておりました。その祖父の言葉と、姿がいつしかわたくしの意識の底にしみこんだのでありましょう。のちにわたくしをして宗教の世界に目を向けさせる要因となったことは確かでございます。
さて、現在のわたくしの精神的な土台となっているものは、申すまでもなく、仏陀(ぶつだ)の教えであります。菩薩としての使命感であります。ところが、仏教のいちばん根本の教えとなるものは、三法印であるといっても過言ではございません。その三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、この三つを申します。その第1番目に諸行無常とは、一切の、現象は時々刻々に変化をするということであります。心も物質も、固定、不変と見える木や石さえも、常に変化をして、えー、おります。えー、物質の究極のものとして、不変と思われておりました原子でさえも、その内部では、常に動き、変化していることが、近代科学によって明らかにされております。
ましてや、わたくしどもの体もまた、時々刻々に変化をしてることは申すまでもありません。
とは申せ、人は老い、やがて滅する、そのような、はかない、意味での変化を中心に仏陀(ぶつだ)は、この諸行無常を説かれたのではありません。すべてのものは変化する、変化するものであるからこそ、現在の瞬間、瞬間にベストを尽くせというのが真の仏陀(ぶつだ)の教えであり、それはまた、おごれる者に自省を促し、不幸の者に希望を与えて、精進せしめるというそれがこの真理を仏陀(ぶつだ)が説かれた真の精神であります。
第2番目に、諸法無我でありますが、この諸法無我とは、すべてのものは他(た)と関係なしに孤立して存在するものではないということでありまして、すべてのものは、相違相関の間柄にあるということであります。
わたくしが、東京からロンドンに飛行して、来るためには、操縦するパイロットをはじめ、安全飛行のために絶えず地上から通信を送ってくれる人、機械を整備する(「しゅる」と発音)人、燃料を補給した人、機体の材料である鉱物を掘り出した人、機体を設計した人、というように見てまいりますと、1機の飛行機はまさにジェットエンジンの推進だけではなく、世界中の真心によって支えられて飛ぶことができるわけであります。そのような、(咳払い)そのおかげさまで、わたくしをいまこうして皆さまの前へ出ているわけでございます。
もっと突っ込んで考えてみますと、機体のジュラルミン(「ジュウラミン」と発音)やチタニウムのような原料である鉱物も燃料も、人間がつくって地下にうめたものではなく、自然から与えられ、それを利用しているにすぎないわけであります。ところが人間は、それに気づかず、自分の力だけで行動し、生きているという傲慢さをもつようになったことは、反省すべきでありましょう。あるいはまた、自然との調和ではなく、自然を征服するという驕慢さによって人類はいま、公害や資源の枯渇というかたちで、自らの首を絞めているのが現状ではありますまいか(咳払い)。
さて、諸法無我についてお話を致しましたが、ここで出てくるのは、仏教のいま一つの大事な教えであります。それは縁起ということであります。縁起とは、一切のものは縁によって起こるということであります。現在、わたくしが着ておりますこの衣服も、日々(にちにち)の糧(かて)である食料も、自分以外の人々の勤労の結果を縁とし、この心もあらゆる出会い、すなわち体験と知識を縁として形成されております。そうして人間は、あらゆる縁の中で生かされているというわけであります。人間社会はあたかも、網のようなものであって、自分という一つの網の目は、他(た)の網の目によって保たれ、また自分という一つの網の目は、他(た)の網の目にとってなくてはならぬ縁(「いん」と発音)となっている、うー、のであります。ところが、今日(こんにち)の人びとは、物とか金(かね)とかいう目に見える物質的なものだけにとらわれすぎております。
わたくしたちはこの縁起の世界、目に見えない世界というものに目を向けなければなりません。いまや他(た)の天体のことまでわかっている人間ではありますが、自分自身の存在が、なんによって支えられているかということを知らぬのはまさに悲劇(「へいぎ」と発音)であります。え、世界に例をとって見ましても、日本(にほん)はもとより、ソ連でさえも、アメリカから大量の食糧を輸入しなければならないという時代に、絶対のもの、究極のものに近づくための手段にしかすぎない、イデオロギーのために対立するということはじつに愚かなことであります。長い歴史の流れからすれば、イデオロギーは、その時代時代の衣装にすぎない、といっている人がおります。しかし、人間は衣装だけでは幸せにはなれませんし、生きていくことさえできません。特に近代におけるイデオロギーの、ほとんどが、対立闘争の中で自分の存在を確立していくという考え方で、考え方がつおいように思われます。自己の利益のみを中心にして主張し、その拡張をはかる、そうした考え方にとどまるかぎり、憎しみと争いから脱却することはできません。
事実、人類の歴史は争いのくり返しでありました。個人と個人とのエゴの相克、偏狭なナショナリズムの衝突、帝国主義、労使のあいだの争い、すべてが自分がなんによって生かされて、存在しているかを忘れた、近視眼的独善的な発想に由来するものであります。
いまわたくしは、諸行無常について、しょ、諸法無我について、そして縁起について簡単にふれてまいりましたが、人口の増加、資源の問題などを考えますと、人類生存のためには、まだいくつかの紛争があるにせよ、ナショナリズムから地域主義に、そして地球主義から世界共同体の、建設に向かわざるをえないと思うのであります。
そして地球という一つの船に乗った人類家族という考え方が、芽生えつる、芽生えつつある今日(こんにち)、人間の心の平安と幸福、世界の平和の、を至上目的とする宗教が、宗教用語や儀式形態の差こそあれ、互いに反目し合ってよいはずはありません。
第二バチカン公会議において、わたくしは、いまは亡きパウロ六世猊下にお会いを致しましたとき、猊下は、仏教徒のわたくしに向かって、キリスト教徒、キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がまたキリスト教徒のために祈る、そのような状態にならなければ、宗教が人類に貢献する道はない、いまや人類という言葉は、隣人という言葉と同じ意味になりつつある、と申されました。そのときわたくしは、宗教者は、宗派の壁を、(咳払い)、しゅう、宗派を隔てる壁を打ち壊し、その壊れた小石をもって断絶の溝をうめなければならんと決心を致したのであります。すなわち、世界平和の達成には、政治の、イギの、エゴのみならず、人間精神の改革が必要であり、そのためにはまず宗教そのものが、ルネッサンスが必要ではないでしょうか。
爾来(じらい)、わたくしは、世界の宗教、まずキリスト教をはじめ、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、神道(「しんどう」と発音)、仏教などあらゆる宗教者の心ある人びととともに、争いではなく協力を、奪うことではなく惜しみなく与え合うことを、そして学び合い、互いに力を合わせて平和を阻害する要因を除去するために、世界宗教者平和会議を組織し、努力してまいったのであります。
すでに述べたごとく、わたくしたちは、いま一度、すべてのものは変化してとどまることがないという諸行無常の真理を忘れて、相対的な物質のみに執着し、あるいはまたわたくしたちが、諸法無我という真理を見失って、天地のすべてのものに支えられているという事実、目に見えぬものを、ものに生かされているという事実に気がつかぬために、感謝を忘れ、愚痴と怒りと貪(むさぼ)りの心のままに生きていないかを互いに反省したいものであります。
さて、第3番目の涅槃寂静でありますが、いま述べた、愚痴と怒りと貪りという、この誤った心を、仏陀(ぶつだ)は煩悩の炎に譬えておりますが、その煩悩の炎を吹き消した状態を梵語で、(咳払い)ニルバーナ、つまり涅槃寂静と呼ばれるのであります。この煩悩の炎を吹き消した、安穏の境地に達することが、仏教徒に与えられた一つの命題ということができましょう。つまり、いまを去る二千五百余年前(ぜん)、仏陀(ぶつだ)は、人びとが煩悩の炎によって自らを焼き尽くそうとしておる危険性に警鐘を鳴らされたわけであります。ただし、ここで注意しなければならないことは、とかく自分の涅槃寂静だけに安住し、現実の改革に取り組むことを忘れがちであることを、わる、(咳払い)忘れがちであることに対して、わたくしたち仏教徒は、十分に留意する必要がありましょう。
最後に、わたくしは、昨年6月、国連軍縮特別総会において提言の機会を与えられ、カーター大統領閣下、ならびにブレジネフ書記長閣下に対し、軍備のために危険を冒すよりも、平和のために危険を冒すべきである、と申し上げました。もとより宗教者としてのわたくしの声は小さく、弱いことをわたくし自身がよく存じております。
しかし、核の脅威、そして人類の3分の1(いつ)が餓死線上にあって、年に約600万人の人たちが餓死しているということをいわれております。さらに、残る3分の1(いつ)が、腹ふくるる思いをしている不均衡を見るにつけ、わたくしたちは、これで果たして、よいなだろ、よいのだろうか、という問題意識をもつべきでありましょう。世界にはまだ文盲(「ぶんもう」と発音)の解決よりも、まず、パンが問題のところがたくさんございます。
わたくしども立正佼成会におきましては、いままでにカンボジアにおいて子どもたちの学校をつくり、農業の指導を行い、ラオスでは信仰の中心である国宝タートルワン寺院の修復に取り組んだことがございます。
しかし、それらの事業は、戦争による政変によってあえなく放棄せざるをえませんでした。さらにベトナム難民の救助、バングラデシュの子どもたちへの食糧援助、ネパール女性の日本(にほん)における看護婦養成などを、微力ながらも続けておりますが、それはまだ事態を揺り動かすほどの力にはなっておりません。
かつて1974年、第2回、せいかい、世界宗教者平和会議を、ベルギーにおきまして、(咳払い)スーネンス猊下のご協力によりまして、ルーベン大学内で行わしてもらいました。そのとき英国の新聞記者から、わたくしは、こういう質問を受けたことがございます。「あなたはいろいろと平和のために努力しているようだが、効果はあがらないのではないか」と。そのときわたくしは答えました。「いや、こう、効果がなかなかあがらないからこそ、わたくしは一生懸命にやっているのだ」と。皆さん、それこそが、損得や利害打算を捨てた、宗教者の使命ではないでしょうか。
今日(こんにち)までわたくしは、平和のために宗教者として何をなすべきか、何をなしうるかを模索しつつ実行してまいりましたが、確かにその歩みは遅く、足跡(そくせき)は失敗のくり返しであったといえるかもしれません。わたくしは、一つのことをしようとして失敗した、あなたもまた同じように失敗した、しかし二人が力を合わせれば、できることがたくさんあるに違いない、そうした思いのもとに、わたくしは、世界の宗教者を糾合(きゅうごう)して、世界宗教者平和会議の活動を行っておるわけであります。おそらく、今回の、テンプルトウ、(咳払い)トン賞は、神仏がわたくしに、迷わずにその道を行け、(間)、との、(間)、ご啓示をくだされたもので、ものだと存じます。わたくしは、(間)この受賞に深く感謝をするとともに、今後の努力をしてまいる覚悟でございます。
以上を申し上げまして、わたくしの講演を終わりたいと存じます。ご清聴、ありがとうございました。